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 青空、青海、深海――blueはすべて遠くにある。色の遠近法によれば、青は常にかなたにあり、深遠であるがゆえに視界が及ばず、宗教的で“聖”なる色、スピリチュアル・カラー(霊色)となる。
 聖観音には、仰ぎ見ることはできても、近づきがたいオーラがある。ところが「見えない」が「見てはいけない」とちょっと視点を変えるだけで、「聖」が「性」に近づく。ピンク映画は英語ではblue filmとなる。sexを扱う映画業界は、scandalを売り物にするsmut industryと呼ばれ、アルファベットのsに支配される。宗教の「聖」を「性」と結びつけるのも、一神教文化圏ではsである。その心は青である。蛇のようにくねった(slithery, slippery)アルファベットのsの頭文字を語源的に追えば、蛇(snake)に辿りつく。蛇は悪魔(Satan)の化身だ。神にしても悪魔にしても、犠牲(sacrifice)が伴う。主人にさぶらう(serve)究極の存在はslaveである。人身御供(sacrificial lamb)は今でも存在する。
 一神教では人を誘惑(seduce)するsexualな悪魔の本体はserpent(snake)で、secrecyを好む。これがscandalの種になる。イヴに禁断の木の実を食べるように、つまり一緒にsleepしないかと誘惑(seduce)したのはsinfulな蛇であり、アダムを誘惑した女(seductress)はイヴというアバズレ(slut)であった。Eve はevil(邪)そしてdevil(悪魔)と同系列に並ぶが、親元といえばSatan、Sの親玉である。
 蛇の発する音はsss…である。「静かに」と「これは秘密(secret)だよ」という場合はsh(時にはshh, またはssh)で、やはりsが主導する。聖(sacred)が性(sex)に結びつくのはすべて、青に結びつくsilentのsである。青と赤で身を包んだSpidermanは、いつも影(shadow)から突如姿を現し、緑色の悪魔(Green Goblin)と闘う。いつも下部(sub)に潜み(submerge)ながら、super natural powerを発揮するsuperman的存在こそ、青いSatanic powerの正体である。
 地球から遠い場所に御座すsky, Sun, stars, satellite(従う、serveする者という意)もすべてsから始まる。そういう、かなたにおわします霊的な(spiritual)存在はすべてsupernaturalな力を持つものだ。空間的に遠くに現存するばかりでなく、青は時間的にも遠くかけ離れて存在する。青は伝統である。断続が許されないアナログの世界だ。True-blueとは「生粋の」という意味の形容詞であり、万世一系の皇室はまさに、幽界に近いbluestな世界であり、民間の(green)眼で見れば、憂鬱(blue)になりそうだ。緑の人権を守る法律が及ばない聖なる空間だ。
 民間人の嬰児(緑児(みどりご))(新芽のように若々しい児で3歳ぐらいまでの幼児)は肉親から緑の愛を受けることができる。緑の愛はloveだが、青の愛は「仁」であるから英訳に困る。そんな移ろいやすい愛を現行憲法が保障する。青眼で観れば、現行憲法は違法、そして無効なのである。青は永劫と弥栄(いやさか)を意味する。皇室の子孫は、歌舞伎の世界と同じく、伝統的な青の愛を受ける。肉親の緑の愛(俗)から切り離された青(聖)の空間で育てられる。デジタルの「私」を育むのがアナログの「公」である。法律で保護されるポピュラー・グリーンから、皇室典範で守られたロイヤル・ブルーへの位相へ神隠し(spirited away)されるのである。緑が青を畏れるのも無理はない。伝統の色に染まるには、武士道の心構えというべき死を賭した覚悟が要る。ハラ(soul)が要る。人権が及ばぬ群青色の空間は筆舌しがたい、天帝のみぞ知る孤高の心境であろう。
 死――。群青色を恐れる人の潜在意識は、死への恐怖、そして死への憧憬である。緑とは違った生気なき、聖域(いやしろち)であり、いったん死を覚悟した者にとり、これほど美しい色彩はないという。身を投げ出したいほど美しい色とは、息が奪われるほど美しい色彩空間である。
 歌手の八代亜紀が大好きな色が群青色だ。よくいじめられた幼少の彼女を絶望から立ち直らせた霊色である。泣きくずれたあと、ふと見上げた群青色(ミッドナイト・スカイ・ブルー)に救われた彼女は、神を見た。彼女が私の好きな「舟唄」を歌う時、控え目な緑色(人間愛)を愛で育む「藍色の賛歌」を感じるのだ。
 藍(indigo blue)とは、青より濃く、紺より淡い色だが、それを薄めた淡青色は伝統的な日本人が好む寒色だ。古神道でいうケ(俗)に対するハレ(聖)とは、この淡青色(azure)ではないかと思う。日本をこよなく愛した英国人作家ラフカディオ・ハーンは、日本人のAzure Psychology(青空心理)という英文随筆を書いたが、今も存命であれば、日本人の乱れた色彩感覚を見て歎かれるだろう。
 「縄暖簾のあの濃紺の色はどこへ行ったのだろう。日本人は老舗(のれん)を傷つけることを何とも思わなくなったのだろうか。やはり、私の故郷のイギリスへ戻ろうか」
 他愛ない私の独言だと嗤っていただいてよい。しかし、今の日本人は遠き(青)を避け、近き(緑)に近づき過ぎてはいないか。生きようが、死のうが、援助交際をしようが、しまいが、本人の勝手でしょうといわんばかりに、若者たちは淡緑色のエゴを主張する。民主主義は饒舌の緑を好み、寡黙の青を敬遠する。
 青の心を知ろうともしないから、当然青が育む緑の生命の尊さが理解できない。いや、知ろうともしないのだろう。若者の自殺。青い親の心を踏みにじる――肉親にとりこれほど悲しいことはあるまい。次に、私の白いハラのロジックで「緑」を分析してみよう。