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「のに」の功罪 ―― 松本道弘のお祭り顛末記

3月29日(土)、「日本の集い」(春日弘司企画)の第2弾「日本の気概」が外国人記者クラブで行われた。ボイエ・デメンテ、ペマ・ギャルポを中心に、大勢の豪華キャストを集結して、参加者の満足度は高かったが、経験済みという好条件にも拘らず、前回より参加者は減った。

総指揮者の立場にあった私は、いわばリーダーであったために、興業上の失態の全責任は私にある。
自らスポンサー(資金的に余裕があれば別だが)をすることは二度とやらない。プロデューサー役もしない。昨年から決めた3月29日という企画は変えられず、年賀状にも3月29日は「吼えます」と公言してきた。武士に二言はない。これがあだになったのか、まっすぐで淋しいという狂気の詩人・種田山頭火の散り方をしてしまった。

数週間前に、前回と同じく当日参加者は60名ぐらいはと踏み、大ホールを私の独断で予約してしまった。全責任は私。全ての負担も私がと大見栄を切った。
この日を逃しては、二度と私がスポンサーをすることはないという背水の陣だ。アリゾナにいる親友・ボイエ・デメンテもきっと駆けつける、と確約してくれた。もう変更はあり得ない。

この失態でうんでいた私の傷口に、塩を塗った声がどこからともなく起こった。3月29日を外せば成功した「のに」というコーラスだった。
背水の陣を敷けば、部下もボランティアも必死で動くという覚悟で臨めば、成功するという盲信があっただけに、私の落ち込みはひどかった。私にはリーダーシップがないと猛省の毎日が続いた。一泊6,000円のホテルから、一泊2,500円のフトン無しのビデオ館に通い、路銀の節約に勤めた。

プロデューサーとして失格なら、ディレクターとしても失格。
6人のゲスト・パフォーマーのうち一人は、NHK出演の経験も多く、「私は高いですよ」といわれ動揺する。値切り交渉もする。「じゃ当日の出来栄えを見て払って下さい」という。悶々とした。プロデューサーとはつらいもの。ポスターから、日本語の名前を出さないで欲しいというクレームがつく。NHKからも、世間が騒ぐので、「英語でしゃべらナイト」という名前も出さないで欲しい、参加料をとるプログラムに名前が出ると困る、というクレームがくる。

ディレクターやプロデューサーに謝罪する毎日。
窓口が全て私一人になってしまった。部下に指示を与える余裕などない。
それでも、サムライ・松本道弘の面子はpriceless(金では測り切れない)なのだ、という意地まで風化させてはならない。

お金は必ず出すが、謝罪し続けるのがリーダーなのか。私の出演料は高いですよ、と虚勢を張っていたこともあったっけ。今思い起こせば恥しい。ピアノがないから演奏ができない、ミュージック伴奏がないと踊れないとか、前夜からも電話が私にあり、ディレクターとしても失格 ―― 泣きそうになる。同時通訳の準備どころではない。

ではパフォーマーとしての私の同時通訳の出来栄えは…。
前夜、独りで準備した。当日会うボイエ・デメンテの15分間同時通訳、チベット問題で東奔西走のペマ・ギャルポとのマンダラ・ディベート。そして浜岡勤(国際ディベート学会理事長)の日英同時通訳。すべて出たとこ勝負。同時通訳者が、いかに日本のために吼えるという大義名分があったとしても、スポンサー、プロデューサー、ディレクター、パフォーマーを兼ねることに無理があった。

同時通訳も、日英に関しては疲労が極度に達し、とくに浜岡氏のスピーチの日英は、思うようにはいかず、落ち込んだ。
サムライは「のに」は使わない。
私の英語道人生を支えてきた哲学である。
海外さえいけば、もっと英語がうまくなれた「のに」という言葉は口が裂けても言わなかった。

私が松本道弘という上司の参謀なら、29日が出陣と決めた以上、上司の面子を立てるために、命を懸けるだろう。
どうしても「のに」を貫くなら、もし29日を引き伸ばしたら、全責任がとれるという確約をする ―― 必ずしも切腹という言葉は使わなくても ―― という覚悟を、できれば書式で、表示する。
それがサムライ。

内容は成功、興業は失敗で、5分5分の出来栄えだと思っていた私が、全面的敗北を認めざるを得なかった原因が、この「のに」をめぐるバトルがお祭りの後に発生したからだ。
お金の問題ではない。サムライとしての意地の問題である。名誉(武士のメンツ)も重い。ましてマネーで換算されるものではない。

私の面子を守ってくれたサムライがいた。ボイエ・デメンテという青い眼のサムライ作家だ。
ドクター・ストップに近い状態で止められていたが、この日(3月29日)のために、飛行機で飛んでくれた。私の懐状態を知っているボイエは、飛行機代までは請求しない(ほとんどの物書きは、金銭的にはいつも苦労しているが)。しかも機内食にあたって、到着後ダウン。
寝込んだままだった。

外人記者クラブのベテラン・ライブラリアンの山岸女史が「ボイエさんは、松本さんのために、命懸けで来てくれたんですよ。もしボイエさんの身に何か起ったら松本さんの責任ですよ。守ってあげて下さいね」と笑いながら忠告してくれた。薄謝ですませんと、関係者に電話で謝り続ける私。中でもボイエに一番借りがある。

宿谷睦夫宅で寝込んだままのボイエにお礼をと思い、一夜を共にすることに決めた。が、「ひょっとしたらボイエとの対談は最期になるかもしれない」と思い、テープを持っていく。
この半病人と私が密室で3時間話し合う。案の定意気投合した。日本語でしゃべっているのか英語でしゃべっているのか、分からなくなってしまった。このテープはいずれ転写して、紘道館のブログに載せるが。とにかくボイエの人となりが出ている。

「最悪の状態できてくれてありがとう。よく私のメンツを立ててくれた。山岸女史から、もしボイエの身に何かがあったら、私は殺害者になる、といわれました(笑)」
「私が倒れたのは、食当り(food poisoning)で、病気のせいではない」と私の気を紛らわしてくれる。
「のに」攻撃で参っていた時に、私の方がボイエに気をつかった。

「いや、健康時なら食当りなどすぐに回復するが、ドクター・ストップに近い状態で私の顔を立ててくれたから、それがたたってダウンしたのだ。責任は私にある」
「いや、医者が心配したことはたしかだが、倒れたのはあのスクランブル・エッグが犯人だ。この通り、下痢が続いている」
「Don’t go samurai on me.」(オレに、サムライぶったりしないでくれ)
しかし、彼は、責任は自分にある、といい続けたので、平行線のままだった。
お互いに「のに」を使わないのが、サムライの気配りであることを知っている。
さわやかな一夜であった。

癒された。人を責めるより、自分を責めるのが武士道だと、ボイエと語りあって悟った。この「祭り」のあと、松本道弘事務所を設置するという夢は破れてしまったが、身体を張って、私の面子を立ててくれたボイエのお陰でふと考えた。(あの祭りはひょっとして成功だったのでは)。
とにかく、「ミチー。あれでよかったんだよ。ボクがこのまま死んでもキミの責任じゃないよ」と言ってくれた、青い眼の友人がここにいた。この癒しの言葉が「のに」で責められ傷ついていた私の心を癒してくれた。
まっすぐで淋しくて ――。

人は自分に、絶望した時に、相田みつをに救いを求める。私の妻もそうだった。
今、身も心もクタクタになっている私は何気なく、浅草プラザホテルに常置されている相田みつをの『しあわせはいつも』を手にした。
次の詩が心にしみ通った

白い花びら
あのことも
このことも
みんなじぶんがまちがっていたようだ
もくれんの白い花びらをみていると
そのことがよくわかる
はずかしいほど
身にしみて
よくわかる
みつを

私がこんな清らかな詩がつくれる日はいつだろうか。溜息。
じっとボールペンを見る。

コンビニで買ったノートの表紙に「残心」と書いた。
同時通訳のパフォーマンスはまだまだで、もっと修行が要ると考え、次の紘道館の準備もあり、24時間英語のシャワーを浴びることにした。みそぎ(身削ぎ)の「行」も兼ね、泊まる場所もフトン無しの個室。
5,6時間ぶっ通しでメモをとっていると、疲労に襲われる。29日の祭りで疲労も極度に達していたから、集中力も落ちている。

ひとりぼっちの空間で、ふと西山千師匠の声が聞こえた。いや私の良心の声だったのかも。
「松本さん、あのデジタル化したアメリカ文化とはなんのことですか。よーく内容をフォローしなさい。ボイエさんはdegenerationという言葉を使っていました。堕落か、頽廃と訳すべきです。
それに、浜岡さんの野球の物語では、ストーリーが見えていませんでしたね」
「もう、あの時はマネージメントでくたくたで、頭の回転が…」
「何を言っているんですか、松本さん。プロは言い訳をしてはいけません。不出来は不出来です。通訳の道はjourneyなんです。tripなんかじゃありません。自分で選んだ道を引き
返すことはできません」

ふっと師が消えた。夢ではないな。自分の良心かも。師匠は、同時通訳が終ったあと、振り返ることはなかった。私のようにクヨクヨしなかった。
血液型でいえばB型とA型の違いによるものだろうか。そんなことはどうでもいい。プロかアマかという話をしている。
時空を超えた、カマキリ大明神の複眼から免れることはできない。
また落ち込んでしまった。

もう一人いた薩摩のサムライ

紘道館に花が咲いた。
ちょうど花見の季節でもある。
不忍池で全員が花見。少しアルコールが入った。中興の祖として迎えた浜岡勤塾頭の許可もあり、全員ほろ酔い気分で歓談。松崎編集長はしらふのまま、記録係を勤める。いかにドイツ美人と親しくなっても、ひざ枕はいけませんという松崎君の視線で自粛。狼軍団のリーダーらしくという願いもある(こんな私でもリーダーか)。

その日、通訳のプロが3人集まっていた。松井(東京)、横山(名古屋)、比嘉(沖縄)。午後の即席サッカー・ディベートもヒートし大成功。
堀池プロデューサーの語りに塾生一同が魅了される。
TIMEの中からは、モンゴル人が狼なら、中国人は羊という個所が、前日横山君と観た映画『モンゴル』で学んだことと一致し、日本人もwolvesとsheepに分けられ、私の軍団は狼のそれ(a pack of wolves)であり、pack leaderとしての私の失敗は、sheepをwolvesと勘違いした時によく生じる、と分析した。

モンゴル人は、リーダーを自分で選ぶ。組織力ではなく、人間力だ。そしてリーダーも、羊でなく狼を選ぶ。強いリーダーは、強いフォローアーを選ぶのも世界で通用する成功の秘訣だ。
一人旅館の部屋に戻り、浜岡塾頭から受け取った3月29日の決算レポートを読み、感銘を受けた。帳尻を合わせ、赤字部分をかなりかぶってくれた。裏方を含め、60名と、数まで揃え、私の面目を守ってくれた。
決して(お祭りは)失敗ではないと。

いつの間にか、剛速球のピッチャーである私に対し、キャッチャー役を勤めてくれていた。会計まで頼んだ覚えがないのに、いつの間にか、やってくれていた。陰徳。そして苦言。(オレは学生時代、名キャッチャーだった。館長がそんな弱気なピッチャーなら、キャッチャーなんてやってられない)
叱られたようだ。

「やはり狼軍団のリーダーはつとめてくれ。
オレは、国際ディベート学会の理事長として女房役をやる」
(このオレがリーダー?)
では、3月29日のお祭りは、成功だったのか。
目頭が熱くなった。

オレは再び立ち上がる。松本軍団(pack of wolves)のリーダーとして。
関西から紘道館へ道場破りに来た、蒼き狼、横山(30)も、私を師匠と仰いでくれる。
横山君の歳といえば、私が西山師匠を仰いで上京した時期にあたる。いつまでも弟子なんだからという気持ちに甘えてはならない。全国、多くの弟子にもう一度pack leaderとして背中を見せなくてはならない。

薩摩武士・浜岡氏のjustice(けじめ)は、3月29日のお祭りは成功とのこと。これでやっと私の武士としての面子は保たれた。それにしてもJustice delayed.(遅れに遅れた判決)

2008年4月14日
紘道館館長 松本道弘