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人生引き際が大切だ

 三遊亭円楽(74)が引退した。人生引き際が大切だ。オレの人生に退職はない、と豪語し続けている私でも、引き際はどうあるべきか、常に考えている。人は納得した時点で、身を引く。そして引退する。
  この辞める時が難しい。もう少し残って現役をやってもらいたいという、周囲からの惜別の声が囁かれている間に辞める。これがプロの「残心」だろう。
  最近よくベンチャー・ビジネスの社長からコメントを求められる。これは会社の経営者にも言いたい。
  ビジネスで難しいことは、勇気をもって何かを始めることだ。
  もっと難しいことは、続けることだ。
  そして一番難しいことは、徳のある者に道を譲るタイミングを失わないことだ。この禅譲が難しい。
  残心の欠如によるトラブルが多発する。自分の政権を手放したくない。しかし世間の眼も光っており、譲らなければならない時がある。政権の座にしがみつくことは醜だ。思い切って手放すことこそ美である。
  これは、英語道の精神でもある。学ぶことはlearn。それを捨てることはunlearn。地位や肩書きをつけることは易しい。しかし、それらを獲得し、責務を全うし終えたと一息つく前に、引退の準備をすることは難しい。まだ続けられると、自信がみなぎっているからだ。そんな時に、引退することは勇気の要ることだ。
  人は1より2、2より3、3より4、と高いところを目指したい。それは人情として自然な行為だろう。
  しかし、登ることにこだわってはいけない。登山者が怪我をするのは、山を降りる時だ。そのことに気づいたのは、今年、屋久島の縄文杉に会いに登山をした時だ。登りつめて、足が棒になった。しかし、降りる時はもっと辛かった。ガイドが「怪我や事故は下山する時に多いのですよ」とさり気なく言う。
  まさに「残心」なのだ。
  三遊亭円楽は、自己採点に厳しいプロの落語家であった。頑固ではない。プロに徹しているだけだ。登りつめた師匠を叱る人はいない。自分が自分を叱らなくて、誰が叱るのだ、という自己に対する厳しさは、ゼロをスタートとする芸人魂だろう。
  謝り続ける森進一を頑として許さない川内康範も、プロ中のプロだ。お袋の無償の愛が判らぬ人間に歌ってもらっては困るという信念は石のように固く、世間の常識を超えたものだ。地位、カネ、マスコミの世評などに踊らされない。
  英語術は1から始まるが、英語道はゼロから始まり、ゼロに終わる。
  「無償の愛を歌いますから許して下さい、先生」という前に、無償の謝罪を続けなければならない。
  謝って許してもらえば、元通りの幸せが訪れるというのは、有償の謝罪だ。それは術だろう。マスコミに見守られてやる謝罪訪問がパフォーマンスであれば「術」となる。
  道は目立たない。誰も見ていない所でこっそり泣き詫びることが無償の愛に繋がる「みそぎ」(身削ぎ)ではなかろうか。
  やはり私は古ーい人間なのだろうか。英語道が極道と共通する点は、このゼロ(空)を原点とする道の思想だ。
  ナニワに生まれた英語道の「心」は、「ナニワ英語道ブログ」(http://plaza.rakuten.co.jp/eigodoh/ )を読んでいただければご理解頂けるだろう。英語の道だけではなく、英語の術も盛り込んでいくつもりだ。
  英語道は「行」である。
  術も道も同じ、始めることも終わることも同じ、勝つことも負けることも同じ、敵も味方も同じ。英語道も人生道もスタートはゼロ、終わりもゼロで同じだ。
  ―― すべて「行」である。よもや残心を怠らぬように。

 
2007年3月22日
紘道館館長 松本道弘