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 火は赤く燃える。と、人は言う。しかし、赤にも種々の色がある。濃くてあかるい深紅色は「緋」と呼ばれる。
 緋は単なる一種の赤色だけではなく、緋色の糸や絹をも意味する。この辺りから糸偏が増えてくる。
 緋縅(ひおどし)の鎧とは出陣前の武者震いをしている武士の姿を彷彿させる。三島由紀夫はどのような赤色で自らの一生を燃焼させたのであろうか。緋色は英語でいえばscarlet。スカーレット・ウーマンとは罪深い、ふしだらな女のことだ。緋文字(スカーレット・レター)は、昔の米国清教徒の間で姦通を示したAの文字である。禁じられた恋愛。
 三島が求めたのは、その緋(火)色?まさか ――。
 緋色とは、窯(かま)の炎で、素地が酸化して偶然に生み出されるほの赤い色のことであり、その明度は土と炎との巡り合わせにより、決定されるという。
 土と炎との化学的結合を、男女の情愛と結びつけると、それは「想ひの色」となる。
 三島は女には燃えず ―― 青く燃えた嫉妬愛はあったが ―― 種火のままであったが、憂国という概念の磁力に惹かれてから、真赤に燃える炎になった。そして血しぶきを飛ばして殉死したのだ。
 漁火となり、いつの間にか、土と炎が恋焦がれる ―― それは三島にとり国土であり、皇道であった。愛する女のためという私情で燃えるのではなく、憂国という「公」のために自らを炎上させたのであるから、緋色の花びらとなって散華したと信じたい。
 三島ウォッチャーとして知られている異色のジャーナリスト、宮崎正弘は、独自の調査能力を発揮して、故三島(側近であった)の軌跡を追い、日本のみならず世界中を馳せ巡った。三島三部作の最終作『三島由紀夫の現場』(並木書店)では、小説『潮騒』の舞台となった神島にまで足を運んでいる。
 三島に私淑しながらも、文士としてのスタンスを崩さず、距離を保ちながら、三島の死後も「憂国志」の幹事役を自任されている、奇特な方だ。
電話による私の質問に適切に答えられた。「三島由紀夫は常に充電を求めていた派手な電池人間でしたが、『英霊』を書き始めてから、あなたのいう磁石に変化したのでしょうな」と答えられ、意外な感じが拭えなかった。
 電池が磁石になった。
 それまでの三島の作品を読むと、男女の愛と嫉妬を描く作品が多かったが、パチパチと朗らかに燃えている程度で、火力が弱かった。土から離れていたからだろう。人と人との繋がりや男女の絆を表現するケミストリー(物質の神秘な化学的反応)の熱が欠落していた。松本清張が小説で描く男女のどろどろした情念の炎に較ぶるべくもない。
 いくら赤く燃えて、炎になっても陶器としての完成度は低い。
光沢のある釉薬(うわぐすり)をいくら重ねても、素地が十分焼き締まったとはいえず、読者を骨の真髄まで陶酔させる磁性に乏しい。土を求めていたのではないか。
 三島由紀夫が陶器に詳しい松本清張に嫉妬し(橋本治の見解)、怯え(私見)たのも、人間の情念を緋色にする土への燃えるような恋慕ではなかったか。
 宮崎正弘の分析は正しい。そのきっかけは、映画『ひいろ』であった。日本と中国の二つの国に引き裂かれた親子の想い≠ェ60年を経て家族を再会させる。ここが涙を誘う。家族の絆が緋色となって炎上する、感動のドラマで私の期待を裏切らなかった。
 徳江長政監督は述べる。「土と炎が生み出す陶器の素晴らしさと、その器が織り成す人間模様を通して、人の心の絆の確かさを見つめようと思いました。小さな器に秘められた、親子の博愛が、『やきもの』の持つ奥深い『やさしさ』を通して多くの人に伝わればと考えています」と。(映画パンフより)
 ここには、青はない。赤のみだ。
 親子の絆は「赤い糸」である。
 三島由紀夫の作品には表れない骨肉の愛。緋色の愛。
 三島が潜在的に求めていた緋色の死。

 その選択は殉死でしかなかったのか???